正統はてな村_愛国よろこんで

強くなければ国を愛せない やさしくなければ愛を国せない 日本語ユーザー再度参照してください

人間の育成欲求は消えない

それを前代未聞の国益につなげられないものかと考えています。

阿弥陀の北

多くの人間は、いつまでも自分自身に夢中になりつづけていられないものなんですよ。

インターネットとかで活躍してる人を見てると、たまに「ずっと自分の成長だけが楽しい」みたいな人もいるんですけどね。「40歳過ぎても自分に熱中できる」っていうのはある種の才能だと思います。

カギは「コミュ力」!? 僕らはなぜ大人になれないのか…精神科医に聞いた|新R25 - 世の中がわかるジブンもいい。

自分に熱中できるかどうかは、「才能」ではなく環境の問題だと思います。

育てられる子供や部下などの他人がいなくて、艦これやグラブルの楽しさを知る機会も無かったら、自分の成長だけを楽しみにするしかありません。この条件に当てはまる40代の人間は、現代日本においては稀であるかもしれませんが。

そして、もし仮に、「インターネットとかで活躍してる人」が「自分の成長だけが楽しい」と言っているのであれば、それは単なる嘘か高度なジョークだと思います。

ヒトラーとかいう人間力の化物

人間は、仮想環境での成長を楽しむことができる生き物です。それができるのなら、環境内での視点を変えて、自分自身(自分の身体)から離れたものの成長に介入して楽しむことも難しくありません。

実子や自社や祖国のような、自分の体ではないものの「成長」への介入は、「育成」「貢献」と呼ばれるものですが、その楽しさは自分の成長についての楽しさと互換性があります。「同じものである」と断言してしまいたくなるほどの互換性です。10円玉1枚か、それとも1円玉10枚か、といった程度のどうでもいい違いしかありません。


そもそも、いわゆる「成長」とは、ある特殊なルールが設定された環境における、自分という適応キャラクターの育成です。ルールが無ければ、「成長」も「天才」もありません。

将棋を指す自分の育成。バスケットにボールを入れる自分の育成。そういった何らかのルールによる限定の無い「自分の育成」なるものは無意味ですし、「自分の成長」も同じく無意味です。

そして、そのルールまたはそのルール自体の存続を左右する一回り大きなルールが、自身の生存とは(ある時点で)無関係でありながらもやはり(別の時点で)関係してきてしまうというややこしいもの(ざっくり言えば、社会的なもの)である場合、「自分の成長」と「他人の育成」との間に明確な一線は引けなくなってしまいます。


一例をあげると、

インターネット人士・メディア人士には、何歳になっても自分中心、本当に若者みたいな心で生きていて帳尻が合っているようにみえるバイタリティの塊みたいな人がいる。でも、ああいう「永遠の若者」はいろいろ特別ですよ、あれで心と体の帳尻が合っている人はいろいろ別枠。

p_shirokuma(熊代亨) on Twitter: "インターネット人士・メディア人士には、何歳になっても自分中心、本当に若者みたいな心で生きていて帳尻が合っているようにみえるバイタリティの塊みたいな人がいる。でも、ああいう「永遠の若者」はいろいろ特別ですよ、あれで心と体の帳尻が合っている人はいろいろ別枠。"

ここでいう「インターネット」や「メディア」の人間が前提にしているルールこそが、その典型例です。扱っているものが情報である以上、書き込み側と読み取り側の「成長」は常に絡みあっています。設定された何らかの高みへ向かうにせよ、ビジネスとして数字を上げていくにせよ、自他を切り離してそれぞれ個別に育成することはできません。

何年たっても人は人

人間は、仮想環境での成長(あるいは育成)を楽しむことができる生き物です。「仮想環境」の装飾は、世代によって様々ですが、その基礎は変わりません。みんな、何かしらの理由をつけて(環境を作って)やりたいことをやっています。

  • マンモスを狩れた世代(石器世代)
  • やってるうちに麦がいい感じになってきた世代(DNA世代)
  • 世界大戦にファーストから参加できた世代(総力戦世代)
  • わりと平和な社会で、子育てについての意思決定を少人数で行なえる世代(核世代)
  • 起業した会社の時価総額が熱い世代(ビッグバン世代)
  • ガチャで水着ゾーイを引けて背水レベルを15まで上げられる世代(コンジャクション世代)

(現時点で)「仮想」と言い切るのは難しいイベントから(現時点で)問答無用のバーチャルまで、人間は次から次へと新しい成長空間を発明してきました。仮想の純度は上がる一方です。

そしてそれと並行して、個体の維持とは無関係な、時には有害な「成長」を、あらためて餌の確保と結びつける社会的な仕組みも構築されていきました。総力戦もスポーツもブログも子供や十天衆の育成も、すべてはその仕組みの枠内に収まっていきます。今のところ、人間が育成欲求そのものを放棄するシナリオは見えてきません。仮想クッキーの数を増やすだけで楽しく食っていける社会のほうがまだ現実的です。

子育てが二度あれば

そういうわけで、結局は経済というか「数」についてのグローバルなサクセスの話になってしまったので、あまり国益な感じにはなりませんでした。ので、次回は質を重点して「古流」をやりたくなってきました。自分の子供から手を離して、定年退職を意識する年頃になると、「もういちど子育てをしたい」という欲求が芽生えてくるのです。人間の業はどこまでも浅い。