正統はてな村_愛国よろこんで

強くなければ国を愛せない やさしくなければ愛を国せない 日本語ユーザー再度参照してください

「労働者」をやめて、「日本人」を始める

アイデンティティは何者か?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

この本でも多用されている「アイデンティティ」という言葉が、僕にはよくわからない。その単語の辞書的な意味は理解できないこともないが、「アイデンティティの確立」「アイデンティティの危機」といったぐあいに応用されてしまうと、どうにもピンとこない。元才女おばさん問題を知ったときの感覚がよみがえった。


エリクソンの文脈を離れて言えば、「アイデンティティについての○○」とは「食事・排泄についての○○」であり「免疫についての○○」だ。何かを血肉にし、何かを排除しながら、体を維持する。個体の自己同一性はそれに尽きる。


しかし、もちろん、そんなアイデンティティは、他人の知ったことではない。「自分は(社会的に)何者なのか」というテーマには、もっと表面的なものだけが関わってくる。

中年~高齢者の顔には、人生の履歴が深く刻まれている。

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について - シロクマの屑籠

だから、主観的に「自分は何者にもなれないまま中年になった」と思っていたとしても、第三者から見ればそうもいかない。

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について - シロクマの屑籠

顔に刻まれる履歴など、臓器に比べれば何ほどのものかと思うが、社会的な関係とは、表情や肌の色艶といった浅い情報だけを見せあうことによって成り立つものであるようだ。誰とでも臓器が見える距離で付き合うことを求められたり、その逆に、顔面と手を完全に隠すことを求められるような社会は滅多にないだろう。


結局のところ、ある人間が何者なのかは「顔を見ればわかる」「手を見ればわかる」「数字を見ればわかる」というのが社会的な落とし所になりそうだ。人生や臓器の状態は、強引に数値化された形でしか、語られうるものにはならない。

三者は何者か?

三者からみれば、中年は全員「何者かになっている」

「何者にもなれない」の正体と、中年期以降の約束事について - シロクマの屑籠

三者の国の人(略せない)から見れば、僕はまぎれもなく日本人に見えるはずだ。日本人のように笑うし、日本人のように表情を読む。おまけに『寿限無』か『鶴亀』でも披露すれば、疑う余地はないだろう。


そして、他人の知ったことではないディープなレベルにおいても、僕はかなりの日本人だと自負している。

骨は昆布で出来ている
血潮は納豆
心は消すべきもの
幾たびの戦場を越えて敗戦国の民

これが日本人だ。これ以外の「何者か」は不要だ。これからも、第三者の国の人から見て完全なる日本人でありつづけるべく、日本人の民族理念と忍法を探求していきたい。そして、日本の国益および社会保障に関与しながら昆布を食べる。