正統はてな村_愛国よろこんで

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ブロガーは批評家ワナビか? (今後のブログのためのメモ)

あるコンテンツについて何かを書く人についての表

直近の目的 能力 文章の種別 品質目標 流通バフ
文人 同人との交流 文章力 感想文・批評文・考証文 同人からの評価 郵便・出版システム
批評家 通貨 + 固定読者の獲得 + ? 文章力 批評文 掲載誌・対象ジャンルの維持拡大 + ? 掲載誌・対象ジャンルが得てきた観客
ブロガー(文人の末裔) 同人との交流 文章力 感想文・批評文・考証文 同人からの評価 インターネット
ブロガー(批評家ワナビ) 批評家になる 文章力 批評文 批評家・出版関係者からの評価 インターネット
プロブロガー(STEP1) 通貨 + STEP2の流通バフの獲得 文章力 紹介文 商品購入への直結 インターネット
プロブロガー(STEP2) 通貨 + ? 文章力 紹介文 商品購入への直結 + ? フォロワー数・PV・広告収入の実績値

表についての注釈

  • 上から下へ、歴史的な出現順序にしたがって配列したが、ブロガー二種の前後関係については議論の余地がある。
  • 批評家と書評家と評論家を区別せず、あえて一括して「批評家」とした。この点についての細かい議論は予定していない。後述する究極の目的のためにはコスパが悪すぎると判断した。
  • 「同人」を別の言葉で言い換えるなら、「同好の士、または同志」だ。
  • 「プロブロガー」「感想」「紹介」の解釈については、『嫌になってしまった--十分日記83 - 今日の十分日記』と『宣伝としてブログを書くならせめて「面白い宣伝」を書いて欲しい - あざなえるなわのごとし』の読者によるそれを想定した。未読の方には、ぜひ読んでいただきたい。このメモを作成する動機となった文章だ。
  • 「流通バフ」は筆者の造語。定義は「文章の読まれやすさを高める要因。ただし、これまでの文章の提供によって著者が直接得たもの(文脈の豊かさ + 著者への信頼)および個々の文章自体の品質を除く」。適切な熟語を知ることができれば、置き換えたい。御教示を乞う。
    • 「フォロワー数・PV・広告収入の実績値」は、上記の「著者への信頼」には含まれない。あくまでも、ただの数値。著者について何も知らない(先入観を持っていない)相手にも伝わる、ただの数値だ。数は伝わる。
      • 提示されている数値自体の真偽がどう判定されるかについては、ここでは踏み込まない。
  • 「インターネット」は、我ながら最悪だ。しかしそもそも、ブロガー自体が最悪なのが悪い。
  • 「文章力」の意味するところは、表の各行ごとに異なる。それぞれの意味については、今後の重要な論点となる。ただし、全ての行において「何らかの自然言語の読み書き能力」がふくまれていることは、ここで強調しておく。

基本的な雑談

  • そういう(とりあえず表だけ作った)わけで、(批評家ワナビでしかないブロガーの社会的価値についての考察と生存戦略の考案を)やっていきたいと思っているわけですが、
  • 残念ながら批評家ワナビでしかありませんでしたよ、ある種のブロガーは。(結論)
    • ブロガーが残念なのはある意味本望なんですけど、今のままだと残念ですらない。
      • そもそも「批評家ワナビ」という言葉、他にもう少しスマートな感じの言葉がないものかと思って探してみたんですけど、無い。
    • 最近知ったけど、批評家はすごい。知れば知るほど、すごい。
    • ちょっと前までは、「ブロガーの強みは雑種性・雑食性だよな」と思っていました。愚かにも。
    • しかしその雑種性・雑食性を、批評家は何十年も前からやりこんでいた。書評の皮を一枚むけば怪物ですよ。
    • それに加えて当世の批評家の中には、学術的な専門をやりこんだ経験者も多い。
      • 現代社会の大人は、誰もが何かの専門家でありそれでメシを食ってるわけですが、その専門性が文章に活かしやすいものであるかどうかはピンキリです。たとえば俺が専門分野(主任への媚び方)で得たものは、学者としての練度や書誌的な専門知識に比べるとゴミです。
  • では、そんなブロガーは、何を目指して何をやっていけばいいのか?
  • 一心不乱に批評家を目指し、彼我の格差を埋めていくしかないのか。
    • しかしここで、雑種としての力?器?大きさ?混沌?複雑性?の格差が問題となります。そんなよくわからない謎の格差を埋めるための効率的なカリキュラムは、当然のことながら確立されていません。
  • あるいは、批評家の本来的雑種性についてはいったん忘れて、一つの「ジャンル」に集中すべきか。たとえば、ジャンルの枠が比較的明確な、「ジャンル小説の書評」というジャンルとか。
    • 当然のことながら、どのジャンル小説についても激戦区です。そのジャンル全体が大好きとか、俺が市場を拡大してやるゲームが大好きとかでないと、そうとう辛いと思います。どのジャンルも、歴史的な蓄積と慣性質量がえらいことになっていそうなので。
      • はてな村では、ミステリやSFに比べてホラーの書評があまり知られていないようなので、東雅夫氏の『ホラー小説時評』をおすすめしておきます。この本をパラパラ眺めてみるだけでもわかると思いますが、他のジャンルに負けず劣らず、えぐい沼です。あとがきには「香具師の口上めいた」というレトロな表現もあって、これ、プロブロガー問題を論じる上でも重要なキーワードです。
  • 闇と沼ならどちらを選ぶ?という話ですね。
  • そもそも、それをやっていくための経済的な基盤はどうする。就職失敗かつ実家が太くないブロガーはどうする。ブログとは関係のない事情で、周りのブロガーが次々と消えていく。はてな村が滅びてしまう。それでいいのか。はてな村あっての俺たちではないのか。もっとはてな村を豊かにして、はてな村に養ってもらいたくはないのか。
    • 文人の系譜についての話をしていませんでしたが、とりあえず、昔と今とでは経済的な事情が違いすぎるので、各人それぞれの条件に応じてやっていきましょうとしか言えません。
      • 現代的な琴棋書画(DTM・ゲーム・有名人のサインの偽造(はおすすめしません)・イラスト)のたしなみがあれば、それはそれでマネタイズ可能な環境が整ってはいますね。
  • というようなことを、過去のブロガーもさんざん考えてきたはずですが、そうこうしている内に「プロブロガー」という黒船が、視界の中でやばいサイズになってしまいました。
  • それを見て、迷わずそちらへ飛びつくなり、空気を読みつつ徐々にそちらへシフトするなり、あるいは倫理や伝統的な価値観に訴えて糾弾するなり、それぞれのブロガーなりにわあわあやっているのが、はてな村の現状かと思われます。

きょう迄、ほんとの意味で、大衆文学批評があったかといえば、私は、無かったと断言する。
偶々、大衆文学に対して、それらしい筆を向ける記事も、多くはいたって概念的な悪口か、揚足とりでしかない。
甚しいのは、批評家が、あまりものを読んでいないことだ。読まない批評家が批評を書く。また、或る感情を持っている純文学と称する人たちが、歪んだ尺度と、狹義な文学至上をもつて、徒らに漫罵する。

吉川英治『折々の記』

純文芸派の正宗氏、近松氏などの大衆文芸批評も、一家言として、傾聴の値はあるが、ああした高きから低きを見るような、純文学概念などは、この際、もう昨日の声、おとといの声だ。

吉川英治『折々の記』

大衆文学はおもしろければいい。むずかしいリクツはごめんだ。ましてその作品を青筋たててどうのこうのいうのはナンセンスだ。大衆文学に評論は無用である――こういう考えは、昨日まで常識とされていた。たしかに大衆文学で「面白さ」を欠除している作品は落第である。しかしここで問題なのは、その「面白さ」の内容だろう。

尾崎秀樹『無評論時代の終焉』

このような性格を考え合わせると、大衆文学が、昭和初期に出版業界が経験する突然のすさまじい発展ぶりに、直接に結びついていたことも、ある意味で納得できる。なぜなら厳密には定義しがたい"大衆"を悦ばせたいという考えと、できるだけ多数の人々を引きつけたいという考えとのあいだには、ほんの一歩の違いしかないからだ。

セシル・サカイ『日本の大衆文学』

実は私が直木の「大衆文学論」で興味をひかれたのは、彼が大衆を二つに分けて、「経済的大衆」と「精神的、または文学的大衆」とよんでいる個所だ。「経済的大衆」については説明するまでもあるまい。社会的階級構成と、文学的な階層はかならずしも対応するとは限らない。困窮者のなかにも精神の貴族がいれば、支配層、権力階級にも精神的大衆はいる。(中略)
大衆文学のむずかしさはそのあたりにひそんでいる。

尾崎秀樹『直木三十五論』

甲賀三郎は「娯楽を第一義として読む読者が批判階級であり、娯楽以外に何物かを求めようとする読者が無批判階級なところに大衆文芸の悩みがある」と書いた(高橋磌一「大衆小説の歴史性」より孫引)。これは具体的にいえば、吉川英治の「宮本武蔵」を娯楽読物としてよむインテリと、人世開眼の啓蒙書としてありがたがる人々とをさすといってもいいだろう。

尾崎秀樹『無評論時代の終焉』

文学もまた商品となりうるという面の認識が足りないといって芸術派をたたき、返す刀で商品として以外に文学は存在しえないと思いこむ大衆作家陣に斬りつける――この杉山平助の秘剣ツバメ返しの一手は、佐々木小次郎岸柳があみだしたといわれる講談ダネの奥儀だが、岩国錦帯橋のたもとで創案したわけではなく、慶大理財科を中退、父の死後、貧困のなかでさすらいの生活をおくり、療養と転職と放浪のすえに体得した彼の生活哲学の文学的表現なのであった。

尾崎秀樹『杉山平助論』

自負にたがわず、杉山の仕事は残らない。

大澤聡『批評メディア論』

昭和初期の大衆作家たちもまた、「娯楽」のための"芸人"のような存在になっており、次から次へと書きなぐるために「売文業者」と揶揄されていた。ちょうどそのときに、政府の権威に保証されるかたちで、はるかに"尊敬されるべき役割"を演じる見通しが生まれてきたのである。作家たちはそこに、社会的"贖い"の可能性を垣間見た。

セシル・サカイ『日本の大衆文学』
  • こういう、どこかで見たようなハードなプロブレムを、批評家は既に経験しているので、それでなおかつ生存しているので、やっぱり彼我の格差はとってもすごいなと思いました。(小並絶望感)
  • ここで終わると、希望に向けての物語があまりにも厳しくなるので、少し今後の予定を書いておきます。
  • まず「書評」の形式を模索してみましょうか、というモチベーションで、読書会的なことをやります。
  • 読書会といっても、メインは会合そのものではなく、書評の作成です。
    • もう、並のブロガーが個人で書評を書ける時代じゃないですよ。歴史的な文脈が豊かすぎます。
      • グラブルでいうところのアルティメットバハムートN(HP10億)くらいの覚悟でちょうどいいと思います。30人で殴れ。
      • ジャンル小説の進化というものは、時に多くのライトな読者を振り落とすほどの速度で進むことがあります。というか、個々の読者の進化の速度は、作者の想定をはるかに下回ることが多いのではないかと思います。
      • その溝を埋めるのも、批評家という媒介者に期待されている役割ですが、おおむね批評家もちょっと速いです。
      • 読者は作者よりも数が多いんだから、それを活かして、みんなで船をこげばいいと思います。30人で殴れ。
    • なので、チャットのログを「書評」と言い張っていく構えです。
      • チャットをやる前後に、叩き台と反省文的な文章は書くつもりですけど。
    • いま念頭に置いているのは、文脈ゼミでやっていた、30分のチャットを何セットかやるやつ。
      • 文脈ゼミ、このメモのテーマ的にも超重要です。
  • 運営方針は、文脈ゼミよりもさらに、大学のゼミから遠ざけようと思います。ブロガー感を積極的に出していきます。
    • ブロガー感 = 匿名掲示板感と批評家座談感の間くらいの感
    • 素性不問。カミングアウトされても運営者(俺)が困る、という感じの人も参加OK。ただし、絶対に言わないで。
      • そういう、あやふやな人間が、なんとなく個人として出現する場所を残しておきたい。
  • 書評がうまくいくようなら、同じやりかたで、ブロガーの人物評も作成していきます。「多面的な視点で」という難しい条件を、数の力でクリアしたい。
    • 評価経済」「個人の価値」という言葉が伸びてきている一方で、その評価自体が真っ二つに陣営割れして、全肯定からのヨイショさもなくば粗探しからの全否定のログばかりが目立っている現状、健全ではないと思います。
    • そういえば最近、「宣伝」という言葉はかなり狭い意味に限って使われていますね。逆に、「情報」という言葉は、100年前よりもずいぶんと広くなったそうです。
      • メディア論』も集団で読んでいきたい。この本、俺一人じゃ絶対に無理なやつでした。
  • そういう会合についての詳しいお知らせは、俺のTwitterでやっていくので、たまに気が向いたら見てやってください。このメモをここまで読めた人なら、Twitterも69%の確率で楽しめると思います。