なぜ古流ブロガーは元才女おばさんにならないのか?



女のあきらめが王道だった時代

旧時代の話だが、「読みやすい自伝を書けるのは、女。あとは、社長になれた男だけ」という法則があった。裏を返せば、社長になれなかった男の自伝は、けして読みやすいものにはならないということである。


その時代、男は社長になるべきものだった。営業上の妥協はいくら重ねようとも、最終的に社長になり一族郎党を食わせていくという一点においては、絶対に妥協してはならなかった。

そこでの妥協は、もはや敗北と同じだ。彼の自伝はもう、すっきりした物語にはならない。とはいえ、設計からやり直すわけにもいかない。どう書いても、屈託でねじ曲がった敗者の弁か、部屋住み居候の強引な開き直りか、せいぜいアンチロマンの意欲作といった形にしかならないのである。したがって、マニアックな需要しかなかった。


一方、女は社長になるべきものではなかった。なってもいいが、ならなくてもよかった。女にとって、企業や政府のトップに立てないことは、敗北でもなんでもなかった。父親の都合で結婚してもよかった。夫の都合に振り回されてもよかった。たとえ妥協に満ちてはいても、それが女のまっすぐな人生であり、「女の自伝」はそのようなものとして書かれ、読まれた。

ブログと男女混沌の時代

東映ヤクザ映画や新人類や第二の敗戦の時代を経て、一億総発信の時代がやってくる。「元才女おばさん」の問題が、ブログ的にも熱くなってきた時代である。

華々しいキャリア変遷を経て、なぜかとっ散らかってしまった30代後半〜40代女性。これが元才女おばさんの定義。

元才女おばさん。アラサークリエイティブ女子が直面する危機のその先。 | hirakuogura.com


この時代までには既に、敗者の自伝をなんとか形にする技術が整備され、その自伝を読み解き共感する側のリテラシーも十分に育ちはしたが、それら全てはまとめて時代遅れの廃棄処分となっている。つまり、読みやすい自伝を書くのは、昔と変わらず難しいのが現状だ。

そして、男女平等の理念が普及した分、女の自伝に要求されるハードルは上がっている。もはや、女の自伝であっても、「なぜ社長にならなかったのか?」という問いかけ(おおむねクソリプ)から完全に逃れることはできない。


しかし、自伝行為が許される枠自体は広がった。有名企業社長枠・総理大臣枠・勲章級学者枠・死刑級犯罪者枠・スポーツ特待枠・芸人枠はあいかわらずだが、従来は狭き門であった文筆家枠が劇的に広がった。男性にも女性にも、ブロガーとして人生をやっていく自由が与えられた。


もともと、文筆家という職業は、自伝をいい感じにしたい「元才女おばさん」のために用意されていたかのような枠だった。文筆家は、すべてのキャリアを活かせる「最後の職業」であり、とっ散らかったキャリアを経てきたおばさんの人生を、さかのぼって全肯定してくれる到達点だった*1

そして今や、ブログは万人に開かれた。女だろうと男だろうと関係ない。毎日自伝を更新しながら、その自伝によって生計を立てていくこともできる。


もちろん、これはあくまでも理想である。理想に時間を加えると、失敗と成功ができあがる。「ブログで自伝生活」という新たな理想の出現は、時と共に、新たな勝者と敗者を生んでいくことになる。

先述した旧時代の社長問題は、現在進行中の、プロブロガーvs.余暇ブロガーの煽り合いにまでつながっている。そして、元才女おばさんのブログは、女のあきらめが王道だった時代の筆法を引きずっている。

  • 勝者の自伝と敗者の自伝
  • 自伝についての需要と供給
  • 自伝をいい感じにするための事実(体験)と技術についての需要と供給

これらのポイントを意識しておくと、今後のブログの流れをよりいっそう楽しむことができそうだ。

なぜ古流ブロガーは元才女おばさんにならないのか?

以下、余談。古流ブロガーについての話をしたい。古流ブロガーとはどういうものかを、元才女おばさんと比較しながら明らかにしていきたい。

「なんでもできてしまう」が「とっ散らかる」にクラスチェンジするという危機

元才女おばさん。アラサークリエイティブ女子が直面する危機のその先。 | hirakuogura.com

選ばれしクリエイティブ女子は色んなことが「できてしまう」。そしてできてしまうゆえに、捨てること、絞ることができない。自分がやるべきことのプライオリティをつけることができない。

元才女おばさん。アラサークリエイティブ女子が直面する危機のその先。 | hirakuogura.com

「人から期待されることで自分が納得すると思い込んでるタイプのひと」はじわじわとこじらせ地獄に落ちます。

小倉ヒラク on Twitter

「人から必要とされる、評価される」という事にあれこれ手を出し続けていると「マルチタレント」が劣化して「迷走している人」になる。

元才女おばさん。アラサークリエイティブ女子が直面する危機のその先。 | hirakuogura.com


古流ブロガーのキャリアも、とっ散らかっている。元才女おばさんと完全に一致だ。

しかし、その結果にいたるまでの意識は、はるかに低い。元才女とは全く違う。


そもそも古流ブロガーは、「なんでもできてしまう」というタイプの才能には恵まれていないことが多い。才能がなくても、古流ブロガーは古流ブロガーだ。つまり、「元才女おばさん」の「才」は、古流ブロガーの本質には含まれていない。

たとえ才能があったとしても、古流ブロガーは気が向かなければ表に出さない。才能とそれに対する評価に先導されて動く生き物ではないのだ。

古流ブロガーが気分で才能を発揮し、その瞬間をたまたま誰かが見ている、という奇跡的な偶然の一致がない限り、古流ブロガーの才能は、社会的には存在しない。「ブログ以外に何も無い」のが古流ブロガーだ。


だから古流ブロガーには、「人の期待にこたえよう」以前に、期待というものが存在しない。「人の評価を求めて」以前に、何をすれば評価が上下するのかも判断できない。評価が無いのが評価、というどうしようもない状態が当たり前になっているからだ。


では、古流ブロガーは何を行動基準にしているのか。一言で言えば、3秒ごとに方向が変わる土石流*2のようなマイブームの流れに流されているだけである。

キャリアが迷走している理由を問われても、「社会の需要に応じて」ではなく「なんかやっちゃったので」としか言えない。そもそも、漂着した木っ端に漂着の理由を尋ねるバカはいない。

自問自答でむりやり自伝を書こうとしても、一節ごとに「なんか」「その時はそれが熱くて」「そこは流れで」といった胡乱な言葉の混入は必至だ。元才女が読んだら、意識の低さにあきれ返ってしまうだろう。人間の自伝には見えないかもしれない。

元才女おばさんが持っている、ある種の社会性や善性が欠落している。これが古流ブロガーの特徴だ。


ほとんどの古流ブロガーは、子供のころからこんな感じだ。そしてそのままブログを始め、名実ともに古流ブロガーとなっている。子供のころから混沌慣れしているため、元才女おばさんのように悩んだりはしないし、反省もしない。この変わらない性根を「男子っぽい」という言葉で表現する向きもあり、統計的には古流ブロガーのほとんどが女子高生と称していたりもするが、要するに心は兄弟だ。

何にせよ、男であろうと女であろうと、古流ブロガーは大企業の社長にはなれない。総理大臣や事務次官も無理だ。たまたま受験期に数学や英語のブームが来たので一流大学へ、さらに幸運が重なってキャリア官僚に、といったケースも報告されてはいるが、おそらくそのあたりが確率の我慢の限界である。古流ブロガーは古流ブロガーにしかなれない。*3


まとめると、「古流ブロガーは古流ブロガーに始まり古流ブロガーに終わる。評価が無いのが評価」ということになる。これが、古流ブロガーのレクイエムでありエピタフだ。このままではつまらないので、元才女のブログDNAをとりこむ必要がある。なんなら、元才女おばさんそのものになることも視野だ。

古流ブロガーが知っておくべき全集+1冊

最近の若い古流ブロガーは歴史を知らない。よって、知るべきだ。

露伴全集〈第1巻〉小説 (1978年)

露伴全集〈第1巻〉小説 (1978年)

古流ブログ中興の祖といえば、幸田露伴だ。わけのわからないキャリアをたどりつつ無職になりつつ妹(才女)におこづかいをもらいつつ小説家になったかと思えばわけのわからない作風の変遷をへて小説書くのをやめたり再開したりしている。残した作品の多さと同業者からの評価の高さにもかかわらず、現在ほとんど読まれていない宿命ぶりは、さすがとしか言いようがない。「なんでもできてしまう」系の才能も持ってはいたようだが、才女から説教される才能こそが最高であったことは、その作品の一部からもうかがえる。古流ブロガーたるもの、子供のころから妹か委員長に説教されているべきだ。


父 (新潮文庫)

父 (新潮文庫)

可能性のあくなき追求を継続した時点で、父の敗北は決定した、と言っていい。自らの可能性と戦って勝てる者などどこにもいないのだ。

小林恭二『父』

そういう伝記である。「父」だけでなく、古流ブロガーとしての素質がやばい「兄」についての挿話も参考になる。

*1:これは、ある種の男にとっても同じことである。社長になれない男は女だ。

*2:ゲッツ板谷『わらしべ偉人伝』より

*3:ここでも、ポイントは「時間」「タイミング」である。元才女おばさんの問題は、社会との同期の問題(戸籍上の年齢の増加と、それに応じた社会的評価の変化に由来する)と絡むことによって、「若いころは各ジャンルの有能おじさんに可愛がられていたおばさん」特有の問題と言えるものになっている。社会的に高い評価を受けていた時期がそもそも無い古流ブロガーは、この問題についてあまりにも無頓着だった。

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極度に発達したブロガーは人でなしと見分けがつかない

私の場合、普段は会わない人に会って、たくさん話をするとブログがすごく書きたくなる。初対面の人と話し込んだ時は特にそうだ。

人に会って話すとブログが書きたくなる - シロクマの屑籠


部分的には、私も同じだ。

いろんな人に会って、いろんな話を聞いている職業の人は、ブロガーに向いているんじゃないか。

人に会って話すとブログが書きたくなる - シロクマの屑籠


これも、多くの人にとってはその通りだと思う。

ただ、人に会ってしまうと、話を聞くだけではすまない。こちらも何かを話してしまうことになる*1。それによるブログへの影響は、かなり個人差があるようだ*2


私自身についての法則を書き出してみると、以下のようになる。

  • 人の話を聞くと、ブログを書きたくなる
  • 人に話を聞かせると、ブログを書きたくなくなる
  • ブログを読むと、ブログを書きたくなる
  • ブログを書くと、ブログを書きたくなる
  • 会話をすると、数学ができなくなる

人の話を聞くと、ブログを書きたくなる

これは、ほとんどのブロガーがそうだと思う。私もそうだ。初対面は特にコスパが良い。しかし、会話の場合、人の話を聞いて思ったことをその場で話して(さらに反応を見て)しまいがちになるので、ブログ的にはもったいないことになる。

人に話を聞かせると、ブログを書きたくなくなる

私は基本的に怠け者なので、一度話をしてその場で相手に通じれば、それでもういいやと思ってしまう。宇宙に対する義務は既に果たされた、という気持ちになってしまうのだ。そこで完結してしまう。その話をあらためてブログ化するのは、とてもおっくうだ。そのテーマについても優先度が下がる。

ブログ界のために」「はてな村のために」など、かなりマニアックな動機が無ければ、ブログに注ぐ熱量は明らかに減ってしまう。

ブログを読むと、ブログを書きたくなる

「人の話を聞くと、ブログを書きたくなる」のと同じだ。視聴や体操でも、同じ効果が得られる。究極、さらに修行を積めば、雲の形や午睡の夢でもいいような気がする。

ブログを書くと、ブログを書きたくなる

ブログと会話は、この点が異なる。ブログの場合、いくら書いても、これで十分だとは思えない。課題は増える一方だ。どこで打ち切っても、その先がある。どれだけコメントをもらっても、十年後百年後のコメントを正確に予測することはできない。そもそもブログは、人間相手のものではない。天に向かって書くものだ。そんなおかしなことを感じてしまうのも、文字を読み書きできる人類という種の宿業によるものだと思う。

会話をすると、数学ができなくなる

与えられた問題を解くレベルでのことだが、会話の時間が増えると数学ができなくなる。単純な計算力ではなく、最初の一手を思いつく能力*3に影響する。数学に割く時間を減らさないようにしてもダメだった。

最近はデータも不足しており、話を聞くことか聞かせることかどちらが影響しているのか切り分けもできていないが、おそらくはある種のブログを書く能力にも影響しているはずだ。今後の課題としたい。

*1:もちろん、「何を話すか」に厳しい制約がある職業もある。

*2:就く職業にもよるだろうが、「学生時代にしかできないこと = いろいろな人に会わないこと」というデス一門の雑な口伝も、併せて後世に伝えておきたい。

*3:ブログ化しにくい(言葉で分析するのが難しい)タイプの能力でもある。

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ブログの基礎、「心に妹を作れ」

僕が作品を紹介する基準は『ライトな自分とコアな自分』

他人におすすめできない趣味は、その界隈全体が集団駄サイクルに入っていると思う - かくいう私も青二才でね

『ライトな自分』が持ち合わせるのは客観性。


・オタクにしかわかんない作品ではないか?(中二の僕が見て楽しめるか)
・異性、世代が違う人が読んだ時に片手落ちして見えるのではないか?
・勧めたら頭が悪い人だと思われたり、信頼関係が揺らぐような作品ではないか?
・倫理的にも知識的にも一般の人がわかる作品であっても「これ、○○(人気作品)と同じこと言ってるやつでしょ?」「○○でいいじゃん」と言われないか。(○○の下位互換とみなされはしないか?)


こんなことを考えながら作品を読んでる。

他人におすすめできない趣味は、その界隈全体が集団駄サイクルに入っていると思う - かくいう私も青二才でね


疑念の余地なく好きな曲でも、妹の耳や姉貴の耳で聴くと、また違う感想になる。


言うまでもなく、「紹介」というものは他人に対してするものであり、さらに言えば、異なる文化圏をつなぐものでもある。ブログにせよ商売にせよ基礎となるのは、そのことをしっかり意識した「紹介」だ。


僕には、魂の妹とリアルすぎる姉貴がいるので、そういう点については恵まれていた。両者とも、僕とは文化的素養と趣味がまったく違う。そういう相手に、何をどのように紹介できるのか。10秒しか話を聞いてもらえない時に、何を言えるのか。それを考えるのが、ブロガーの基礎訓練だ。*1

家族についての条件は人によって大きく異なるので、べつに家族でなくてもいい。小学校から大学の教養課程まで、同じクラスになった子のフルネームを全て記憶しておこうと努めることから始めるのもいい。ブログをやっていく上で、いつか必ず役に立つ。逆に言うと、仲が良くて話が合う相手のことだけ知っていても、ブロガーとしては不十分だ。


もちろん、同年代を意識しているだけでは、十分とは言えない。まだ歴史の浅いネット上の文化では、「世代」が異常に細かく区切られる傾向がある。その繊細さは、害にしかならないわけでもないが、狭い「同世代」や、せいぜい下の世代にしか意識がいかなくなってしまうのは、ブロガーとしても商売人としてもよろしくない。

たとえば現在の六十代は、普通にネットショッピングをたしなむ世代でもある。そして、井上陽水という怪物の同世代だ。そんな世代に背を向けていては、趣味的にもビジネス的にも、駄サイクルに入りかねない。


親や祖父母の話をしっかり聞いておくのも良いし、囲碁や将棋を楽しんでいれば、上の世代との雑談の機会も得られる。知らない故事成語や、謎の歌も聞かせてもらえる。

文章を読むなら、中曽根元首相の著作が良い。そのあたりが、現役である「上の世代」のハイエンドだ。前提としている文化があまりにも違うことに驚くだろう。もちろん、いったん中曽根世代までを視野に入れてからは、その下の世代を細かく区切って認識していくのがブログ的にはベストだ。


他にも挙げておきたい具体例はあるが、すべて枝葉末節かもしれない。

根本は「言葉」だ。僕たちブロガーは、みんな言葉を使っている。言葉を使って、政治をやり経済をやり文化をやる*2。そして言葉には、歴史の文脈が流れこんでいる。一つ一つの単語やフレーズには、先人たちの用法が刻まれているし、僕らもまた新たに刻む。その痕跡は、見えない人には見えないし、見える人には見えるものだ。若僧でも長老でも、いずれ僕らは幽霊になるのだ。

*1:考えた上で、「今回は姉貴度外視の方向で」という判断はアリ。

*2:その点においても、中曽根元首相は「最後の宰相」となるかもしれない。

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