敵対的校閲と『月刊ブログメンテナンス』

ブロガーにとって、自分のブログは唯一の資産だ。

資産というよりは、比喩であっても「土地」と言ってしまったほうが、むしろ本質に近いかもしれない。旧来の分類では労働者でしかない人間も、自分のブログについては地主のような立場となり、直面する問題も、地主のそれと似たようなものになる。自然環境の悪化、地味の低下、人口減少、地価の下落。これらに似た問題で頭を悩ませるようになるのだ。


『月刊ブログメンテナンス』は、それらの問題を引き起こす原因の一つである「敵対的校閲」(いわゆる「粗探し」のようなものだが、それほど単純な言葉では片づけられない)に対処するための同人誌だ。ブログという土地の価値を保つための情報共有を目的としている。有料で頒布されるが、情報収集のための費用と整理のための手間を考えると、赤字が消えるのはいつのことになるか判らない。

せめて、中間目標である「友好的校閲*1のネットワークが確立されるまでは、撤退せずにがんばりたいと考えているが、まるで見通しが立たない今の状況で、あれこれ述べてもしかたがない。とりあえずは、「敵対的校閲」という造語についての詳細と、目先の目標を書いておく。

敵対的校閲とは

ざっくり言えば「粗探し」だ。しかし、そのような言葉で表現してしまっては、その動機と結果を見誤ることになる。敵対的校閲の動機は根が深く、結果としての被害は甚大なものになりうる。「土地が枯れる」「土地が死ぬ」といった言葉がふさわしくなるほどに。

敵対的校閲の動機

豊かな土地を持っているブロガーほど、敵対的校閲の対象となりやすい。ブログという土地については、「豊か」と「目立つ」はほぼ同義であるからだ。

有名なブロガーや、注目を集めるような1つの記事を書いたブロガーは、しばしば「粗探しが好きな人」に対する憤りを述べている。しかし、そこで使われる「粗探しが好きな人」という表現は、まちがってはいないのかもしれないが、的確ではない。粗探しが好きなだけなら、黙って粗を探している。その趣味を、他人が知ることは無い。粗探しの結果をわざわざTwitterなどで公開するには、それなりの動機がある。


敵対的校閲の動機となるのは、以下の4つだ。

  1. まず考えられるのは、自己顕示欲。「粗を見つけた僕を見て!」というやつだ。この欲求を満たすには、注目の集まっている記事やブロガーを粗探しの対象にしたほうが、効率が良い。
  2. 注目されているブログに寄生して金を得たい、という金銭欲も動機になりうる。(自己顕示欲との判別がつきにくい場合が多い。どちらも、初期段階では、目立つことに重きを置くからだ)
  3. 同好の士に知らせるために公開している場合もある。おいしい獲物はみんなで味わいたい、そして、自分の功績も正しく評価してもらいたい、という動機だ。
  4. もちろん、「言葉の誤用や、誤情報の拡散を防ぐため」という動機もありうる。本当の動機を隠すための「大義」として語られがちな動機ではあるが。

要するに、ブロガーがブログを公開する理由とほぼ重なる。混合の比率はどうあれ、これらの動機によって、粗探しの結果は公にされる。

1~3番目の動機が強ければ、その語調は過激になる。あるいは、気取った皮肉に満ちたものになる。粗探しをされた側は、「敵対的」と受け取るだろう。4番目の動機が強かった場合でも、社会正義をふりかざしての糾弾が激しいものとなれば、やはり「敵対的」と見なされやすい。

ここまでは、粗探しをされた側の主観の問題だが、2~4番目の動機によってなされる粗探しは、する側の主観にも影響しやすい。粗探しと、その成果の公開を重ねるにつれ、ターゲットのしぼりこみや、ネタの共有・文脈の共有・「常識」の共有は進み、「わかってる自分たち」対「わかってないアイツら」という構図が強固になっていくのだ。

「俺たち」と「あいつら」、「ぼく」と「バカ」、「多くの人」と「詐欺師」。表現はどうあれ、「こちら側のブロガー」と「あちら側のブロガー」の対立が当たり前のものになってしまえば、その境界線をはさんだ粗探しは日常的なものとして繰り返され、「敵対的校閲」という言葉がふさわしいものになっていく。

敵対的校閲の結果

敵対的校閲の結果については、まず友好的校閲の動機について述べたほうがわかりやすい。

友好的校閲とは、いわゆる普通の「校閲」だ。文書の誤りや無駄な複雑さを指摘し、バグをつぶし、文書の価値を高めることを動機としている。言うまでもなく、多くの出版社では仕事として成立している。つまりビジネスの一環であり、著者と校閲者の利害は一致している。

一方、敵対的校閲の場合、著者と校閲者は目的を共有していない。先述した敵対的校閲の動機は、友好的校閲のそれとは全く異なるものだ。その差は、結果にも反映される。


まず第一に、敵対的校閲は、文書自体の改善につながりにくい。単純な誤字でさえ、鬼の首をとったように吹聴されてしまったら、今さら修正する気など無くしてしまう著者はいるだろう。(著者の考える)本筋から外れた箇所の曲解や、読みやすさと厳密さのバランスを度外視した指摘などは、なおさらだ。微妙な指摘であればあるほど、感情的な摩擦の影響は大きくなる。

これは、「敵対的」と感じさせるような態度で指摘をした側のせいとも言えるし、「敵」と見なした相手に対して頑なになってしまった著者のせいとも言える。いずれにせよ、文書の価値は高まりにくい。


むしろ敵対的校閲は、文書の価値を損なうことのほうが多い。字句は全く変わらなくても、読者の先入観が変われば、文書の価値も変化する。ブログという土地の価値は、結局のところ、読者の読み方で決まるのだ。敵対的校閲は、ここに影響する。

自己顕示・集団での揶揄・文書の抹殺を目的とする敵対的校閲は、とかく針小棒大なものになりがちだ。著者から見れば些末なことであっても、敵対的校閲者は、自分が見つけたキズをできるだけ目立たせようとする。そのキズは重大きわまる欠陥であり、それだけでもうこの文書全体読む価値無し、とまで断じようとする。さらに進んで、著者に対する人格攻撃や信用の毀損にまでいたることも珍しくない。

これは、友好的校閲では、絶対にありえないことだ。結果的に見れば、友好的校閲と敵対的校閲のもたらすものは、医者と殺し屋ほどにかけ離れている。ただの「粗探し」ではなく、「敵対的校閲 / 友好的校閲」という造語をあえて用いたのは、この違いを明確にするためだ。

『月刊ブログメンテナンス』の目標

『月刊ブログメンテナンス』の中間目標は、校閲ネットワークの確立だ。多くのブロガーは、プロの校閲者による支援を受けることができない状態でブログを書いている。しかし、せめて、ブロガー同士による相互チェックでブログの価値を高めたい。そう思っているブロガーは少なくないはずだ。

まずは、そのようなブロガー(語句の正しい用法や事実確認を重視するブロガー)にとって価値のある情報を『月刊ブログメンテナンス』に集めていきたい。

ネット検索の罠について

ネット上の無料情報は、紙媒体などの有料情報と食い違うことがある。検索順位の高いもの(Wikipediaをふくむ)であっても、信頼できるとは限らない*2

『月刊ブログメンテナンス』では、あえて有料情報を上位に置く。ビジネスとしての校閲を経て販売されている有料情報をもって、ネット上の無料情報をチェックする。当面は、ネット情報の「誤り」についての事例紹介が、『月刊ブログメンテナンス』のメインコンテンツとなる。

専門家の知恵を借りるための基礎について

「専門家によるチェック」は、中間目標のさらに先にあるものだが、一口に「専門家」といっても色々だ。流行に敏感すぎる大学院生もいれば、もう10年以上も勉強をしていないCTOもいる。そして、ある専門家が専門としている領域の範囲を正しく判別できるほど、ブロガーの教養水準は高くない。そもそも、ブログの多くは、専門家による個別チェックを必要とするほどの水準には達していない。

いま必要なのは、「最低限の知識」の底上げだ。必要とする情報を辞書・事典や一般書から得るための基礎知識を、『月刊ブログメンテナンス』に集約する。

ブログメンテナンスとは

御覧のとおり、『月刊ブログメンテナンス』は、コードのレベルでのメンテナンスやSEOについての情報を扱うものではない。ブロガーのブログを、人類が積み上げてきた文字情報の体系に適合させることを究極の目的としている。これもまた一つのパッチであり、ある種の最適化への努力であると、筆者は考えている。人間とブロガーは共存できる。

*1:これこそが旧来の「校閲」なのだが、ブログはその「旧来」が無いところから始まった。

*2:フィルターバブルの問題は、とりあえずおいておく。

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ブログを2兆円産業に

今どき珍しいクラシックなブログです。つまりブログの正統派です。

どのへんが正統なのかわからない方は、とりあえず、NHK-BS海外ニュースのススメサーヴァント身長一覧が同居する誰向け感のやばさだけおぼえて帰ってください。これがblogです。

さらに興味がある?

PVや金になるツボを絶妙に外すことこそが、正統派への第一歩です。第零歩と言うべきかもしれません。運命的なbloggerは、このステップを生まれつき踏んでいます。

それは滅びる?

普通にしていたら普通に滅びます。だからこそ2兆円が必要なのです。

5000兆円を欲しがっている?

いいえ。2兆円主義はSF、5000兆円主義はファンタジー、3.5億円主義は純文学です。我々は、あくまでも2兆円くらいなのです。

社会に必要?

そもそもブロガーとは何か。ブロガーとは、ブログ以外に何も無い人間です。ブログを書いている声優は、ブログを書いている声優であって、ブロガーではありません。一方、「ブログを書いているブロガー」は、「幽霊屋敷に出る幽霊」みたいなものですから、無駄を省けば幽霊屋敷だけが残ります。

というわけで、幽霊屋敷がありさえすれば、ブロガーは、いてもいなくても不要です。とはいえ考えてみませんか? 社会に幽霊屋敷があるためには幽霊が必要です。そしてブロガーは、幽霊ではなく普通の人間です。食わなければ死んでしまう普通のビジネスパーソンです。そこを考えてみませんか?

「生存圏の確保」とか言いそうになってる?

言いませんけど、我々のエゴを考えてみませんか? ブロガーには、ブログ以外にエゴしか無い。ざっくりデカルトさん方面です。つまり、他人や社会の役に立つ人間になったブロガーは、我々から人材流出していくわけです。定義上、この流れは止められません。我々は残りカスでしかありません。よって、ブロガーが書くブログとは、カスが2兆円を手にして歩きだすまでの物語です。つまり人間賛歌の形になります。人間が人間である限り、人間賛歌は人間です。今こそ我々は、秒速の人間賛歌で2兆円なのです。そもそも他にできることは無い。死ぬことくらいしかありません。我々が生きるためには人間賛歌しか無いのです。

暁に所属している?

所属していません。我々はテロリストではありません。むしろ暴力を何よりも嫌っています。だからこそブログです。定義上、ブロガーに暴力はありません。文字言語以前の世界では、長老が発声する「Love music」と陰キャの「Love music」は完全に別物でした。「誰が言ったか」も「何を言ったか」もなく、ただ完全に別でした。その時代に比べれば、現代は命の孤立が許されています。幽霊屋敷まで、あともう一歩です。2兆円です。

いける?

こんな言葉があります。

これは、自分自身の知だけを頼りに世界と戦う熱き勇者のblogである。

このブログについて - 放課後は 第二螺旋階段で

文化的流星街で育った我々に、文化資本はありません。ある意味、文化的プロレタリアートであると言えます。そんな我々から見れば、古典も廃墟、大学も廃墟、インターネットも既に廃墟となりました。だったら逆にいけるぜます。

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ケルベロス第五のパイズリ


「パイズリ」は、なぜ断絶したのか?

そもそも、本当に断絶していたのか?

これがとうとうわからなかった。愚息もギブアップだ。


「パイズリ」という言葉の起源は、依然として不明である。

デス一門の口伝では、「「パイズリ」の開祖は昭和時代の作家・梶山季之氏である」とされていたが*1、今回の調査の結果、その説も怪しくなってきた。デス一門は、下記の資料を見落としていたのである。

私は野次馬だから、なにか面白い話を聞き込むと、すぐ出かけてゆく。


"パイズリの陽子"というトルコ嬢の話をきいて、取材に行ったこともある。


彼女は、超弩級のオッパイの所有者で、このボインちゃんの涙の谷間に、乳液を塗りたくって、このオッパイでスペシャルをやって呉れると言う奇芸のトルコ嬢なのだ。

梶山季之『巷談名人列伝』(1971)


これがノンフィクションであるならば、梶山氏の小説『と金紳士』で使われた「パイズリ」という言葉は、氏の造語ではない。風俗業界で既に使われていた言葉であったということになる。

しかし、だとすれば、なぜ現代の日本において、山田邦子氏が「パイズリ」の祖とされているのだろうか?


山田邦子氏が己の直観のみで「パイズリ」のイデアに達したことを疑う理由は無い。その影響力と功績は、誰もが知る通りだ。厳密な意味で「パイズリの開祖」と呼べるかどうかはさておき、少なくともパイズリ中興の祖であることは間違いない。現代パイズリの歴史は、山田邦子氏から始まっている。


しかし、昭和時代中期に「パイズリ」があったことも、また事実だ。ここには大きな断絶がある。


梶山季之氏は、けして無名な作家ではない。トップ屋集団〈梶山軍団〉を率いて草創期の『週刊文春』を盛り立て、小説家としても数多くのベストセラーを残している。

そして前述の通り、梶山氏の記録は、「パイズリ」の歴史が昭和時代中期の風俗業界にまでさかのぼる可能性を示している。

それら一切の記憶は、失われてしまったのだろうか?

「パイズリの開祖=山田邦子」という歴史観を疑う者は、はてな村にしか見当たらない。事態は絶望的であるように思われる。


奇跡的にも、山田邦子氏という天才を得て、「パイズリ」は忽然と復活した。しかし、その復活は、断絶の謎を浮き彫りにするものでもあったが、それ以上に、その謎自体をかき消してしまうほどの、(文字通り)画期的な出来事であった。

山田邦子以後の世界では、誰もが、パイズリの根源に到達したと思いこんでいる。あるいは、パイズリの根源に到達することをあきらめてしまった。であるなら、つまり、パイズリの陽子はキリストを超えた。

*1:小説『と金紳士』 1968年連載開始

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